産経新聞の6月7日付朝刊の産経抄に、言葉遣いについての指摘が掲載された。その一部を引用する。
ここは記事審査の欄ではないが、新聞記事の気になる言葉づかいについて。六日付の和歌山毒物カレー事件を伝える小紙の記事である。犠牲になった高一の娘をしのぶお母さん(五一)の感想で「せめて(娘に)真実を伝えてあげたい」という言葉が載った。
▼これは古くて新しい問題でもあるが、「あげる」というのは謙譲語で、自分はへりくだって相手を上げる場合に使われる。従って「植木に水をあげる」や「わが子にミルクをあげる」といった表現はおかしい。「水をやる」「ミルクをやる」が正しい。
▼…とされてはいるが、いまや多勢に無勢、「やる派」は「あげる派」に追いまくられてしまった。若い女性はおおむね「あげる派」である。国語学者のなかにも、美化語や丁寧語としてとらえ、「あげる」を許容する人もいる。
▼言葉は生き物であり、日々変化してやまぬものだが、小欄などはいまも断じて認めない派だ。「あげる」が記事になるたび文句をつけてきたが、いまや日常茶飯になってしまっている。なぜ「やる」は駆逐されたのか。ある女性の話では、「やる」はある種の性的行動を示すので敬遠されるのよということだったが、さてどうだろう。
広辞苑によると、「あげる」という言葉は、「申し上げる」のように自分をへりくだる謙譲語としても用いられるが、「君にあげる」や「教えてあげる」では丁寧語として用いられるという。つまり、「国語学者のなかにも、・・・『あげる』を許容する人もいる」のではなく、今や「あげる」を正当な用法とする考え方が多数派だと言ってよいであろう。
また、記事では、なぜ「やる」という言葉が駆逐されたか詮索し、荒唐無稽な女性の言葉を引用している。「やる」という言葉が駆逐された本当の理由を考えてみよう。再び広辞苑に頼ると、「やる」という言葉には、身分が同等以下の人に対して何かを与えるという意味がある。「やる」という言葉を遣う度に、身分関係を意識しなければならないようになっているのだ。したがって、「やる」という言葉が、身分統制の厳しい封建制度や軍事体制の下では定着しても、国民の平等を旨とする民主主義社会の下で廃れていくのは当然のことであろう。
筆者は言語問題に詳しいようだから、この程度のことは当然承知しているであろう。筆者は年配者のようだが、長幼の序が重んじられた往時を懐かしく思い、そのような傾向が少しでも戻ってくることを密かに願いながら、その真意を伏せ、無謀な言葉狩りに走っているとしたら、そのような行為は許されるであろうか。長幼の序を守るために「やる」という言葉が必要だと考えるのであれば、そのように主張すればよい。今回のような方法は、卑怯という謗りを免れないと考える。
(2002年6月8日掲載)
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